2009年03月03日

豊臣氏武将 其十

黒田 官兵衛(孝高・如水) 生没年1546〜1604(天文15〜慶長10)

キリシタン大名、中津川藩主。姫路に生まれる。祖父重隆は播磨の守護赤松氏の一族小寺氏の養子となったため、はじめ小寺氏を称した。父の代から織田信長の傘下に入り、豊臣秀吉に属する。天正6年(1578)、荒木村重が信長に背いたとき、使者として赴いたが捕らえられ、翌7年、村重の滅亡により救出されるが片足が不自由になる。翌8年、これまでの功により播磨国揖東郡内に1万石を与えられる。10年、毛利氏との合戦において水攻めの際には講和の任にあたり、秀吉の中国大返しを成功させる。本能寺の変後、山崎の合戦では左翼山での戦に功をあげ、秀吉の参謀として戦略的手腕を発揮する。九州攻めでは軍奉行として、豊前に転戦、秀吉の天下取りの参謀として活躍するが、余りの才能に秀吉からも恐れられ、知行はわずか九州中津川12万石しか与えられず、17年、家督を嫡男長政に譲った。以後も小田原攻め、文禄・慶長の役に参加する。関ヶ原の合戦では息子長政は徳川家康につき、戦場に参加するが、官兵衛は豊前で大友義統を破るが、ひそかに九州から天下の横取りをもくろむ。しかし、関ヶ原での決戦が早々に終結したため、野望は潰えた。慶長9年3月20日伏見で死去。ドン=シメオンの洗礼名を持つ。






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2007年05月06日

豊臣氏武将 其九

加藤 嘉明  生没年1563〜1631年(永禄6〜寛永8)

近江水口藩加藤氏の祖。会津若松城主。少年時に豊臣秀吉に仕え、天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いで活躍し「賤ヶ岳七本槍」の一人にあげられる。13年以後、水軍を指揮し四国征伐、九州征伐、小田原の役に参加。文禄の役では船奉行を勤めた。天正14年、淡路志智城主1万5千石。文禄4年(1595)、伊予松前城主で6万石を領した。秀吉の没後は徳川家康につき、関ヶ原の合戦で東軍にあって岐阜城・大垣城を攻め、戦後、20万石を与えられた。元和元年(1615)、大坂の夏の陣に参加。寛永4年(1627)、会津若松40万石を領する。寛永8年(1631)没する。



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2007年05月03日

豊臣氏武将 其八

浅野 長政  生没年1547〜1611年(天文16〜慶長16)

尾張国春日井郡北野出身。安井五兵衛重継の子。母の弟である浅野長勝に跡取りがいなかったため、長勝の養女を娶って浅野家へ養子に入る。この娘が豊臣秀吉の正室(おね)の妹である。そういった関係から、秀吉が織田信長のもとで一軍を任せられるようになると、その直属の家臣となる。天正元年(1573)、浅井長政討伐の戦いで初陣。近江・賤ヶ岳の戦いで功をあげ、近江で2万石を与えられる。秀吉は長政を官僚として高く評価し、京都奉行となる。14年、秀吉の妹朝日姫が徳川家康に嫁いだとき浜松へ赴き家康と会う。15年9月5日、若狹小浜8万石へ転封。18年9月、五奉行の筆頭となる。文禄2年(1593)10月、石田三成の讒言により、子幸長に領地を譲る。関ヶ原の役では東軍につき、11年、家康とは親しい間柄であったため、江戸に移り隠居の餞別として常陸真壁5万石を与えられる。慶長16年(1611)4月7日下野塩原温泉で死去。


浅野 幸長  生没年1576〜1613年(天正4〜慶長18)

浅野長政の嫡男。豊臣秀吉家臣。文官型の父とは反対に武勇にすぐれた歴戦の勇将で、他大名もその武勇に一目置いていた。天正18年(1590)小田原の役で初陣、父に従って岩槻城を攻める。文禄2年(1593)、朝鮮に出陣し西生浦に入る。慶長の役では西生浦城を守って、明軍の将李如梅と戦う。この冬、加藤清正とともに蔚山城に籠城し、兵糧がなく苦しみつつも奮戦した。加藤清正・福島正則とともに武断派に与して石田三成らと対立し、関が原の戦いでは東軍に属し、慶長5年(1600)紀伊和歌山37万4千石を与えられた。家康と秀頼の二条城会見の際には秀頼の身を案じ、清正とともに秀頼を警護した。慶長18年(1613)8月25日、和歌山で死亡。家康の天下となっても終世にわたって豊臣氏に忠誠をつらぬいたため、清正同様、豊臣氏討滅前に家康に暗殺されたのではないかとの説もある。
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豊臣氏武将 其七

福島 正則  生没年1561〜1624年(永禄4〜寛永元)

安芸国広島城主。母は豊臣秀吉の母(大政所)の妹。幼少から秀吉に仕え、播磨三木城、因幡鳥取城攻め、山崎の合戦に参加。天正10年9月、播磨国神東郡内・5百石を与えられる。11年、賤ヶ岳の戦いで、一番槍・一番首をあげ「賤ヶ岳七本槍」の筆頭にあげられ、近江栗田郡、河内八上郡内5千石に加増される。13年7月従五位下左衛門大夫に任ぜられる。小牧・長久手、紀州雑賀征伐の和泉和田城攻めに功があり、伊予国5郡11万3千石を賜る。15年、九州攻めでは肥後国代官、検地奉行を勤める。18年、小田原の役では伊豆韮山城に北条氏規を攻略。文禄・慶長の役では兵糧輸送の任にあたり、文禄4年(1595)、尾張清洲城で24万石に加増。慶長2年(1597)、羽柴姓を許されて侍従に任じられる。4年1月、家康と姻戚関係を約したことにより石田三成らと対立し、5年、関ヶ原の役では家康に属し、東軍の主力として竹ヶ鼻城、岐阜城を攻略して関ヶ原の決戦で先鋒を勤めた。役後その功により安芸広島城49万8千石を与えられる。家康に属しながらも、秀頼が疱瘡にかかり倒れたとき一番に見舞いに駆けつけている。大坂の陣では家康から危険分子とみられ、江戸留守居を命じられるが、冬の陣前には秀頼に兵糧8万石を献じている。豊臣氏滅亡を江戸から見送った。元和5年(1619)6月、広島城の無断修築を咎められ信濃川中島4万5千石に転封。寛永元年(1624)7月13日没。



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2007年05月02日

豊臣氏武将 其六

加藤 清正  生没年1562〜1611年(永禄5〜慶長16)

熊本藩主。土豪・正左衛門清忠の子として尾張愛知郡中村に生まれる。幼時に父をなくし、母が豊臣秀吉の生母の伯母であったため、秀吉子飼いの武将となる。天正4年(1576)、秀吉の居城長浜村付近に秀吉から170石与えられる。11年、賤ヶ岳の合戦で戦功をあげ、「賤ヶ岳七本槍」のひとりとして一躍武勇を高め、3千石の加録を受ける。13年、従五位下主計頭に叙任される。15年、佐々成政が肥後を没収されると肥後半国25万石を与えられる。文禄元年(1592)朝鮮出兵では第2軍として1万の兵を率い釜山に上陸、東道を進み、首都・漢城を経て、威鏡道、兀良哈まで平定、不敗の将として「鬼上官」と呼ばれ、朝鮮の2王子(順和君・臨海君)・左右大臣ら200余人を捕虜とした。中国東北部やロシア方面まで威力偵察を行い、数々の功を挙げる。しかし慶長元年(1596)石田三成と不和になり、秀吉から朝鮮からの償還命令が出た。同年、京都の大地震に際し伏見城に赴き、秀吉の勘気を解いたことは「地震加藤」として有名。関ヶ原の合戦では家康につき、熊本にあって西海を鎮め、その後、肥後一国52万石を与えられた。10年従五位上侍従・肥後守に叙任された。秀吉の旧恩により秀頼の保護に尽力する一方、15年、徳川家康の命による名護屋城の普請では、率先して本丸の大工事を引き受けた。熊本城の建設など築城の名手として知られ、また、治水、干拓にもすぐれていた。翌16年、熊本で死去。毒殺説もある。


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2007年05月01日

豊臣氏武将 其五

竹中 半兵衛(重治) 生没年1544〜1579年(天文13〜天正7)

はじめ美濃の斎藤龍興に仕えたが、永禄7年(1564)2月、安藤守就、弟の竹中重矩とともにわずか十数人で稲葉山城を龍興から奪取した。のち織田信長が数回も城の譲渡を申し入れたがこれを固辞、再び龍興にこれを返し、近江の浅井長政に出仕した。永禄10年、信長の美濃平定後、信長に仕え豊臣秀吉に属する。信長の近江攻めの際、近江での人脈をいかして近江国人の切り崩しを行い実績をあげ、姉川の戦いに参加した。中国毛利攻めでは秀吉の軍師として従軍しここでも調略に冴えをみせたが、天正7年(1579)4月、播磨国三木城攻めの際に発病し、向城の平山に至り陣中で6月13日死去。享年36歳。「その容貌婦人のごとし」といわれるほど武人らしからぬ外見だったが、「今楠木」と評される兵法、軍略の天才であった。黒田官兵衛とともに「二兵衛」とよばれ軍師として活躍する。野心家の黒田官兵衛とはことなり、すべての事柄に優先するのは兵法・軍略であり、それ以外は些細なことであるという考えで、戦こそが生きがいであった。



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2007年04月30日

豊臣氏武将 其四

蜂須賀 正勝 (小六) 生没年1526〜1586年(大永6〜天正14)

美濃斎藤道三に仕えたあと織田信長に仕える。豊臣秀吉とは古くからの間柄で永禄年間以降、秀吉に属する。美濃墨俣城の構築をはじめ、越前天筒山城・金崎城、近江横山城の攻略、長島一向一揆攻めで功をあげる。天正元年、近江長浜の地に所領を賜り、7年、播磨三木城攻めに谷大膳衛好の守る砦を破り、鳥取城、岩屋城を攻略。その功により9年、播磨竜野城主。備中高松城攻めには黒田如水とともに開城に尽力。四国平定戦では瀬戸内の海賊衆も手なずけるなどの活躍を見せる。14年、四国平定後、子の家政に安房一国が与えられ同年死去。


蜂須賀 家政  生没年1559〜1638年(永禄2〜寛永15)

小六正勝の子。天正6〜10(1578〜1582)に及ぶ豊臣秀吉の中国毛利攻めに従軍、黄母衣衆となる。天正15年、九州征伐では日向高城攻略、18年小田原北条攻めでは伊豆韮山城に北条氏規を福島正則とともに攻略するなど秀吉の股肱の臣として活躍。この間これらの戦功により播磨国佐用郡内に3千石を賜る。また14年には安房守に任じられ、安房一国18万石を与えられ、父とともに入国した。文禄・慶長の役では2度にわたり朝鮮に出陣し、南原城の攻撃、蔚山城で浅野幸長の救援など活躍した。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは西軍に与したが、病気と称して出馬せず、蜂須賀勢は大坂久太郎橋、北国口を警備した。子息至鎮(よししげ)は東軍に味方したため本領は安堵された。大坂の陣では東軍に味方したが、海上が荒れたといって渡海を遅らせ、戦闘には参加しなかった。寛永15年(1638)12月31日死去。


前野 長康  生没年?〜1595年(?〜文禄4)

本姓は坪内。蜂須賀正勝と義兄弟であり、永禄9年(1566)、墨俣一夜城の築城に協力して、豊臣秀吉に臣従。四国平定戦で活躍し、その功で但馬5万3千石を与えられる。聚楽第構築の奉行、16年、後陽成天皇の聚楽第行幸の前駆を勤める。文禄4年(1595)、関白秀次の後見役でもあったことから追放事件に連座して中村一氏のもとで自害する。
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2007年04月29日

豊臣氏武将 其三

豊臣 秀頼  生没年1593〜1615年(文禄2〜元和元)

豊臣秀吉の次男。母は側室淀殿。文禄4年(1595)、秀吉の養子、関白豊臣秀次自刃により豊臣氏世継ぎとなる。慶長3年(1598)、秀吉は徳川家康・前田利家に秀頼を託して死去。しかし5年の関ヶ原の戦い以後は徳川家康が天下の政権を掌握、秀頼は摂津・河内・和泉の60余万石の大坂城主という一大名に転落。8年には内大臣となり家康の孫千姫と結婚。10年には右大臣へと進んだ。しかし慶長19年と元和元年の両度の大坂の陣で徳川軍に攻められ、母淀殿とともに自害し、側室との間に生まれた男子国松は捕らえられ、京都六条河原で斬殺され、ここに豊臣氏は滅亡した。


豊臣 秀勝  生没年1569〜1592年(永禄12〜文禄元)

豊臣秀次の弟。天正13年(1585)に病死した織田信長の子で秀吉の養子である秀勝のあとを継ぎ、丹波亀山城主となる。15年秀吉の九州平定に従軍し、戦後、知行の不足を訴えたため秀吉の怒りに触れ所領を没収されたが、まもなく蜂屋頼隆の遺領越前敦賀城を与えられた。天正18年小田原の役で武功をあげ、徳川家康の旧領のうち甲斐・信濃を与えられたが、19年には美濃の岐阜に転封となった。文禄元年(1615)朝鮮に出陣し9月9日、唐島(巨済島)で病没した。
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豊臣氏武将 其二

豊臣 秀長(木下小一郎・羽柴秀長) 生没年1540〜1591年(天文9〜天正19)

豊臣秀吉の異父弟。兄秀吉をよく補佐し、とくに播磨攻略で活躍し、天正5年(1577)但馬竹田城を降して城番となり、三木城、丹波攻めなどに功をあげ、8年(1580)但馬出石城主となり10万5千石を与えられた。本能寺の変後、山崎の戦いで軍功があり、従五位下美濃守に叙任、播磨・但馬領主として姫路城に居住した。天正11年の賤ヶ岳の戦い、13年の紀伊根来寺討伐に戦功をあげ、紀伊・和泉を領し、さらに同年四国平定で大功をたて、大和を加増され郡山城主となり100万石領主となった。15年、九州平定に1万5千の兵を率いて出陣。同年8月、大納言に叙任され「大和大納言」と称された。天正18年正月ごろから病をわずらい、19年正月22日、大和郡山で死去した。秀長は内政・軍事両面にすぐれ、秀吉の片腕として天下統一に貢献し、秀吉政権下では国政の統括者であった。


豊臣 秀次  生没年1568〜1595年(永禄11〜文禄4)

豊臣秀吉の甥で養子。父は三好吉房。母は秀吉の姉のとも。天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いで功をあげたが、12年小牧・長久手の戦いで大敗し、秀吉から叱責された。しかし、13年の紀伊・四国平定戦では戦功をあげ、近江43万石を与えられた。北条氏の滅亡後、織田信雄の旧領尾張国及び北伊勢五郡を領した。天正19年、秀吉の長男鶴松の死後、その養子となり関白となった。しかし、文禄2年(1593)、秀吉に次男秀頼が生まれると、4年謀反の嫌疑を受けて高野山に追放され、自害を命ぜられる。7月15日に切腹、秀次の子や多くの妻妾は三条河原で惨殺された。古筆の愛好者として知られる。
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2007年04月28日

豊臣氏武将 其一

豊臣 秀吉(木下藤吉郎・羽柴秀吉) 生没年1536?〜1598年(天文5?〜慶長3)

尾張中村出身。父は織田信秀に仕えた足軽木下弥右衛門という。はじめ今川氏家臣松下之綱に仕えたあと尾張にもどり織田信長に仕える。軽卒を振り出しにしばしば戦功をあげ、美濃攻略に際し「墨俣一夜城」築城の伝説もある。元亀元年(1570)朝倉攻めのとき、浅井長政の離反によって退却する織田軍の殿軍を努めたことが秀吉の評価を決する。「金ヶ崎の退き口」である。その後羽柴姓を称した。天正元年(1573)、浅井氏が滅亡するとその旧領を与えられ、翌年、今浜に築城し長浜と改め筑前守に任じられる。10年備中高松城を包囲中に本能寺の変報が届き、信長の死をかくして毛利氏と和睦し、軍を帰し山崎の合戦で明智光秀を破った。信長の死後は主導権をめぐり織田信孝・柴田勝家と対立し、翌年、勝家を賤ヶ岳の合戦で滅ぼして信長の後継者の地位を確立し大坂城を築城。天正12年、織田信雄・徳川家康と小牧・長久手で戦い講和。13年に四国の長宗我部氏、15年には九州の島津氏を平定し、天正18年小田原の北条氏を滅ぼして天下統一を達成した。この間、関白・太政大臣に任ぜられ豊臣姓を賜り天皇に次ぐ天上人となった。19年、関白を養子秀次に譲り太閤と称した。文禄元年と慶長元年に朝鮮・明を征服のため無用の戦いをしかけ失敗に終わり、また、愛児秀頼可愛さにおぼれて、秀次を自滅させその一族をことごとく皆殺しにするなど所業が乱れる。慶長3年8月18日、伏見城で没した。秀吉の代表的な政策としては検地、刀狩などがあげられる。天正10年明智光秀を滅ぼした直後から山城で検地を行い、以後全国に検地を進めた。一反を三百歩とし、田畑の石盛を定め、品等を分ち、京枡に一定して石高を算定、また、村単位に検地を行い、耕地一筆ごとに名請人を定めるなど荘園制に終止符を打った。また、天正16年「刀狩令」によって武士と農民の身分の分離「兵農分離」をはかった。ポルトガル・スペインとの関係では、天正15年、伴天連(バテレン)追放令を発布し、南蛮貿易とキリスト教布教の分離を目指した。



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2007年04月27日

織田氏武将 其十九

高山 重友(右近) 生没年1552〜1615年(天文21〜元和元)

摂津島上郡高槻のキリシタン大名。永禄7年(1564)父友照が招いた宣教師ロレンソにより、幼くして洗礼を受ける。洗礼名はジュスト。元亀4年(1573)、和田惟政の死後家督を継いだ惟長と争ってこれを高槻城から追い払い、高槻城主となる。天正6年(1578)摂津国主荒木村重が織田信長に謀反を起こすと、妹と息子を人質として村重に属することを約すが、高槻を要衝とみた信長は、宣教師オルガンティーノを使いとして脅迫まがいの説得を試みた。苦悩の末信長に下ることを決意した重友は、人質を出して信長に謁見する。そのとき島上郡芥川城を7年、村重敗走後は高槻城を安堵される。以後、信長の家臣として緒戦に参陣する一方、高槻領内における布教活動にも尽力する。セミナリヨや教会が多数設けられ、信者は激増し、高槻は京・大坂・堺とならぶキリスト教布教の重要拠点となった。10年、明智光秀討伐のために豊臣秀吉に属し、山崎の合戦では自ら先鋒として参加。戦後、秀吉から高槻4万石を安堵され、さらに4千石の加増を受ける。以後秀吉の傘下で賤ヶ岳・小牧・九州などの合戦に参加。13年畿内の要衝高槻を秀吉直轄領とするため、播磨明石城に移封となる。15年キリスト教禁制の一貫として、改宗拒否の代償として明石城を没収される。しばし、小西行長を頼り、のち前田利家の招きにより加賀に赴き利家・利長に仕える。このころ剃髪して南坊と号した。慶長5年関ヶ原の合戦では利長の家臣として参陣し行賞として5千石の加増を受ける。19年、徳川家康の禁教令によって妻子とともに京都へ送られたのち、長崎から多数の信徒とともに呂宋(ルソン)へ放逐された。翌元和元年(1615)正月、マニラで病死。千利休の流れをくむ茶人としても名高い。
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2007年04月26日

織田氏武将 其十八

荒木 村重  生没年1535〜1586年(天文4〜天正14)

摂津国伊丹城主。はじめ池田勝正に仕え、天正元年(1573)に茨木城主となり、同年、織田信長に仕えて足利義昭を宇治槇島城に攻めて功があり、翌年、伊丹城に移る。以後信長の命で各地を転戦したが、6年、包囲中の石山本願寺に村重の部下が米を売ったという噂がたったため、信長に背き本願寺光佐・毛利氏と通じ信長に攻撃された。籠城10ヶ月ののち伊丹城を脱出し各地を放浪。信長の死後は堺に住んだ。のち豊臣秀吉に起用され、14年5月4日堺で死去した。茶人としても高名で千利休の「利休七哲」のひとり。


金森 長近  生没年1524〜1608年(大永4〜慶長13)

飛騨高山の戦国大名。織田信長に仕え越前大野城攻めに戦功があり、また本能寺の変に際しては豊臣秀吉軍に加わって明智光秀を攻めた。その後剃髪し、金森法印と通称された。天正13年(1585)、飛騨一国、3万8千余石を領し、高山に居城を築いた。関ヶ原の役では東軍に属して戦功があり、美濃・河内の一部で2万3千石の加増を徳川家康から受けた。長近は芸能に通じ、ことに茶の湯と蹴鞠を好み、金森肩衝(かたつき)などの名物茶器を所持した。茶の湯は千利休に学び、のちに勘当されるが、孫の重近(宗和)は近世初頭の代表的茶人である。慶長13年(1608)8月12日、伏見で没した。
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2007年04月25日

織田氏武将 其十七

佐久間 信盛  生没年?〜1582年(?〜天正10)

織田氏の家臣。近江国長原長光寺城主。織田信秀に仕え、信長が家督を継いだときこれを支持し信任を得た。永禄11年(1568)、近江六角義賢との戦いをはじめ、比叡山焼討、三方ヶ原の合戦、長篠の合戦、朝倉攻め、伊勢長島一揆との戦い、松永久秀討伐などで軍功をあげる。しかし、石山本願寺攻撃の際、責任者となるが戦果をあげられないまま4年間を費やし、信長に追放された。その後、剃髪して高野山に入り熊野で没した。


河尻 秀隆  生没年?〜1582年(?〜天正10)

織田信秀・信長の家臣。天文17年(1548)3月の今川氏との三河国小豆坂の合戦に従軍。信長の代には黒母衣衆筆頭。天正3年(1575)の長篠の合戦には織田信忠に代わって軍の指揮をとった。10年武田勝頼の滅亡後、甲斐府中城主となる。6月、本能寺の変ののち一揆に殺された。
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2007年04月24日

織田氏武将 其十六

原田 直政  生没年?〜1576年(?〜天正4)

織田信長の家臣。赤母衣衆として各地に転戦。元亀元年(1570)、信長が近江に侵入し、余呉、木本に火を放ち退却したとき、柴田勝家と殿軍を勤めた。天正2年(1574)3月28日、信長が東大寺正倉院で蘭奢待(らんじゃたい)を賜ったとき、これを監督した。3年、長篠の合戦後、信長の命によりはじめ塙九郎左衛門重友と称していたのを原田備中守直政と改めた。4年、細川藤孝・筒井順慶・荒木村重・明智光秀らと3万余騎を率いて大坂本願寺を攻めたが、5月3日摂津三津寺で討死した。


生駒 親正  生没年1526〜1603年(大永6〜慶長8)

讃岐国高松城主。美濃国の生まれ。織田信長に仕え、のち豊臣秀吉に従う。長篠の戦い、本願寺征伐、紀伊雑賀衆攻め、山崎合戦、賤ヶ岳合戦、小牧山合戦、小田原の役など数々の戦で軍功をあげ、文禄元年、朝鮮の役で渡海した。この間、知行2千石からはじまり近江高島2万石、これに伊勢国神戸4万1千石を加え播州赤穂6万石、ついで讃岐一国を与えられ高松城にうつった。慶長5年(1600)関ヶ原では西軍に属して戦い、敗戦後、山城国槇尾に引退したが、許されて子の一正(東軍に属し讃岐一国17万石を与えられている。)のもとに赴き没した。
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2007年04月23日

織田氏武将 其十五

山内 一豊  生没年1546〜1605年(天文15〜慶長10)

初代土佐藩主。尾張国織田家臣盛豊の次男。織田信長に仕え、元亀元年(1570)、越前金崎・姉川の戦いに従う。のち豊臣秀吉の家人となり近江長浜で4百石を賜り、次第に加増され、天正13年(1585)6月には若狹国高浜城で約2万石をうけ、1万石の豊臣直轄領代官となり3万石の軍役を勤めた。18年、小田原の役に従軍、遠江国掛川5万石を領す。関ヶ原ではいち早く東軍に属し、掛川5万石を差し出し甥の政豊を人質に差し出した。戦後その功により、徳川家康から破格の土佐一国20万石余を受け高知城に入る。慶長10年(1605)9月20日、死去。



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2007年04月22日

織田氏武将 其十四

平手 政秀  生没年1492〜1553年(明応元〜天文22)

織田信秀の家臣。天文12年(1543)信秀の命により上洛し、内裏築地修理料4千貫を献じた。信秀が子の信長に那古野城を与えたとき、政秀と林通勝は信長の家老となり、その教育にあたった。信長が斎藤道三の娘を娶ったのも、政秀の策からでたという。20年、信秀の死後信長の素行を憂えて諫めたが聞き入れられなかったため、22年正月23日、尾張春日井郡志賀村に退き、僧沢彦に後事を託して自害した。享年62歳。信長は有能な政秀の死を悲しみ、僧沢彦に命じて春日井郡小木村に政秀寺を建立した。政秀寺はその後清洲、名古屋に移転した。


林 通勝  生没年不詳

織田信秀・信長の家臣。信長が那古野城を与えられたとき、平手政秀とともにその家老となる。信秀が死去すると那古野城主を命じられた。弘治2年8月23日、柴田勝家らとともに信長の弟信行の擁立を図り、信長に敗れたが許された。天正6年正月安土に移る。8年7月、下田甲斐守の謀反鎮圧に失敗、また、かつて信長に逆心を企てたことを咎められ追放される。
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2007年04月15日

織田氏武将 其十三

村井貞勝  生没年?〜1582年(?〜天正10)

織田信長の臣。元亀3年(1572)、京都所司代。翌年、信長と将軍足利義昭の対立に際し、信長の命を受けて義昭の説得にあたる。7月、信長の入洛後、京都の諸事を奉行。天正4年(1576)、石山本願寺攻撃に参加。また安土城築城、京都南蛮寺建立にも貢献。9年、剃髪して春長軒と号し、翌年6月2日、本能寺の変で信長の嫡子信忠に殉ずる。


ラベル:村井貞勝
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2007年04月14日

織田氏武将 其十二

明智光秀  生没年1528?〜1582年(享禄元?〜天正10)

足利義昭・織田信長に仕えた武将。光秀の前半生に関しては、美濃斎藤氏に仕え、ついで諸国を遍歴したとする説が「明智軍記」などにあるが、正確なところは不明。光秀が史上に登場するのは永禄11年(1568)からである。このころ光秀は朝倉義景に仕えていたようであるが、義景を頼ってきた足利義昭があらためて織田信長を頼るに際し、細川藤孝とともにその間を工作し、義昭の上洛に尽力した。以後、義昭と信長に両属して申次を勤め、京都の庶政にも深く関与し、また、信長の征服戦にも従軍し、元亀2年(1571)、近江滋賀郡を与えられ、坂本城主となった。天正3年丹波の経略に着手。途中、松永久秀・荒木村重が信長に背くとその攻撃軍に参加するなど各地にも転戦しながら、天正7年、丹波を征服、翌年丹波一国を加増されて亀山城主となり、坂本・亀山と京都の東西の要衝を掌握することになった。天正9年には丹後も加増された。天正10年信長の甲州攻めにも従軍、5月徳川家康接待の途中、西国出兵を命じられる。亀山城で出陣の準備を整えた光秀は、京都本能寺に信長を急襲して自殺させる。しかし光秀が政権構想を固める余裕もないうちに豊臣秀吉が反撃し、このため頼みとした細川藤孝・筒井順慶も動かず6月13日、山崎の戦で敗れ坂本城に敗走の途中、小栗栖で土民に殺害された。信長に反逆した原因については政権欲・怨恨説・絶望説・最近では朝廷や足利義昭の陰謀説などがあるが、周到な準備の上での反逆ではなかったことだけは確かである。光秀は茶の湯・連歌にすぐれ文化人との交流も深く、度々連歌会、茶会を催しているほか、故実、典礼にも通じ、また、すぐれた民政化で、天正8年大和など各地で検地奉行を勤め、さらに精緻な軍規を定めるなど、信長家臣の中では最も教養が豊かであった。


明智 秀満 (旧姓 三宅弥平次) 生没年?〜1582年(?〜天正10)

明智光秀の娘婿。丹波福知山城主。荒木村重謀反の際、子の村安に嫁いでいたが離縁された光秀の娘と結婚。天正8年ごろ明智と改姓。光秀の丹波攻略に従い、天正9年ごろ福知山城主。10年本能寺の変後、近江坂本城を守備し、山崎の戦の敗報を聞いて籠城したが、堀秀政らに包囲され、6月15日、城に火を放ち、妻及び光秀の妻子を刺して自刃。自刃の直前、名刀や茶の湯の名物を秀政軍に引き渡した逸話は有名。

斎藤 利三  生没年1534〜1582年(天文3〜天正10)

明智光秀の家老。妻は光秀の妹。はじめ斎藤義竜に仕え、ついで稲葉一鉄に属した。天正8年(1580)明智光秀に仕え1万石を与えられ丹波に住んだ。本能寺の変、山崎の合戦に従い、敗戦後、近江堅田で捕らえられ斬られた。徳川3代将軍家光の乳母、春日局は利三の娘である。





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2007年04月13日

織田氏武将 其十一

丹羽 長秀  生没年1535〜1585年(天文4〜天正13)

織田信長の重臣。尾張国春日井郡児玉に生まれる。丹羽氏は代々斯波氏に仕えていたが、天文19年(1550)から織田信長に仕える。永禄11年(1568)、信長が足利義昭を擁して入京した際、近江六角氏を攻めて功があり、入京後は村井貞勝・明智光秀・木下秀吉らとともに庶政にあたる。12年、伊勢国に北畠氏を攻めた。元亀元年(1570)、姉川の戦いで佐和山城をおさえ、翌年2月浅井氏の家臣磯野員昌を降して佐和山5万石を与えられる。その後、三好三人衆の摂津中島、尾張長島一向一揆、さらに天正元年(1573)の浅井・朝倉氏征討で戦功をあげ、3年長篠の戦でも功績をあげた。同年8月越前一向一揆を平定し、若狹国を得て、小浜に入城した。6年荒木村重の謀反を抑え、9年信長の「馬揃」では一番に入場した。10年の本能寺の変では織田信孝を奉じて、織田信澄を大坂城に攻め、秀吉とともに山崎で明智光秀を討った。その後、秀吉と結び後継者争いでは三法師を立て、近江国滋賀・高島郡を得て、大溝を居城とした。天正11年賤ヶ岳の戦いでは秀吉方として柴田勝家と戦い、北ノ庄に勝家を滅ぼした。これにより、越前・若狹・加賀半国を与えられ、北ノ庄に居城を移した。13年4月16日没。


丹羽 長重  生没年1571〜1637年(元亀2〜寛永14)

丹羽長秀の子。美濃国岐阜の生まれ。天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦いで父とともに戦功があり、翌年小牧・長久手の戦いでは父に代わり出陣した。13年4月父の遺領を継ぎ、越前・若狹・加賀半国の主となった。しかし、同年、越中の佐々成政攻めの際家臣が軍律を犯したとして、越前・加賀を召し上げられ、さらに15年の九州征伐で、また家臣が軍律を犯したとして若狹も召し上げられ、領国は加賀松任4万石に転封された。その後文禄の役に出陣し、加賀国で8万石に加増された。秀吉の死後、徳川家康につき、慶長3年(1589)大坂方の前田利長の動きの監視をした。5年関ヶ原の役では前田利長との確執から出陣しなかったため所領を没収されたが、家康に異心なきを示し8年、常陸国で1万石を与えられた。19年大坂冬の陣、翌夏の陣で戦功をあげ元和5年(1619)常陸国で1万石を加増され、8年、さらに3万石の加増により、陸奥国棚倉赤楯に城を築くことを許された。14年には陸奥国白川・岩瀬・石川・田村四郡を与えられ10万7百石を領し、白川に城を築き移った。同年3月6日没。
ラベル:丹羽長秀 若狹
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2007年04月11日

織田氏武将 其十

森 可成  生没年1523〜1570年(大永3〜元亀元)

織田信長の家臣。美濃金山城主。弘治元年(1555)5月、尾張清洲城攻略に加わり、信長の伯父彦五郎を討つ。その後も緒戦に参陣、軍功をあげる。永禄8年(1565)、金山城主。元亀元年(1570)5月、信長の近江進発に際して近江宇佐山城を守備するが、浅井・朝倉両軍の攻撃を受けて9月19日討死。


森 長可  生没年1558〜1584年(永禄元〜天正12)

美濃金山城主。可成の次男。織田信長に仕え、父の遺領を継ぎ金山城主となる。筋骨たくましい勇士であったため、「鬼武蔵」の異名を持つ。天正2年(1574)7月、伊勢長島一揆の制圧に参加。10年2月、信忠に従って信濃伊那に進発、小笠原氏を降伏させ、さらに高遠城を攻撃。その功により加増されて20万石となる。信長の死後、信孝に属すがまもなく豊臣秀吉の臣となり、12年4月小牧・長久手の戦いに参陣。激戦の中、単身徳川軍に突撃し戦死した。


森 蘭丸(長定)  生没年1565〜1582年(永禄8〜天正10)

織田信長の小姓。森可成の三男。幼少から信長に近侍し、その才器を認められて諸事の奉行、奏者などとして重用される。天正9年(1581)、近江で5百石、翌年、武田勝頼滅亡後は美濃岩村城5万石を与えられる。6月信長に随従して京都本能寺に宿泊中、明智光秀に急襲され、弟力丸・坊丸らとともに信長に殉ずる。









posted by もののふ at 19:23| 織田氏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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