キリシタン大名、中津川藩主。姫路に生まれる。祖父重隆は播磨の守護赤松氏の一族小寺氏の養子となったため、はじめ小寺氏を称した。父の代から織田信長の傘下に入り、豊臣秀吉に属する。天正6年(1578)、荒木村重が信長に背いたとき、使者として赴いたが捕らえられ、翌7年、村重の滅亡により救出されるが片足が不自由になる。翌8年、これまでの功により播磨国揖東郡内に1万石を与えられる。10年、毛利氏との合戦において水攻めの際には講和の任にあたり、秀吉の中国大返しを成功させる。本能寺の変後、山崎の合戦では左翼山での戦に功をあげ、秀吉の参謀として戦略的手腕を発揮する。九州攻めでは軍奉行として、豊前に転戦、秀吉の天下取りの参謀として活躍するが、余りの才能に秀吉からも恐れられ、知行はわずか九州中津川12万石しか与えられず、17年、家督を嫡男長政に譲った。以後も小田原攻め、文禄・慶長の役に参加する。関ヶ原の合戦では息子長政は徳川家康につき、戦場に参加するが、官兵衛は豊前で大友義統を破るが、ひそかに九州から天下の横取りをもくろむ。しかし、関ヶ原での決戦が早々に終結したため、野望は潰えた。慶長9年3月20日伏見で死去。ドン=シメオンの洗礼名を持つ。


